2021年3月24日水曜日

詭弁の論理学③

 


嘘と詭弁

 日本社会に限らず、嘘は強い非難と糾弾を受ける。
 しかし、詭弁は日本社会では花盛りである。奇しくも、菅政権の誕生によって、稀代の詭弁の名手が2名脚光を浴びることとなった。
 有名弁護士で政治評論家である橋下徹と官房長官加藤勝信である。
 橋下については説明の必要がないくらい雄弁で頭の回転が速く、かつ博識で政治経験も豊富である。加藤は東大法学部を卒業し、官僚となり、世襲議員(実際は故加藤六月議員のジバンを相続した娘と結婚した形の世襲)となった。両者に共通する属性は有能な法律家ということである。

日本の法律学体系が詭弁学の体系

しかし、これは偶然ではない。日本の法律学体系が詭弁学の体系だからである。
 詭弁には往々にして権威主義を背景にしたものが多い。
 つまり社会的権威者の言説には詭弁が多い。日本の各界各層で詭弁が花盛りである理由の一つが権威主義を背景にしているということがある。
 有能な法律家は詭弁もうまいことがその要件のひとつでもある。

嘘との区別、嘘との本質的相同性異質性等の概念に関する本質論が存在しないことが原因

 この詭弁が奇妙に社会に受け入れられている最大の要因は、嘘との区別、嘘との本質的相同性異質性等の概念に関する本質論が存在しないことが原因である。
 筆者は夙に詭弁は嘘そのものであると主張をしているが、日本社会では全くこの種の議論をしない。
そこで、今回は具体的事例において、嘘と詭弁の本質について説明する。

嘘と詭弁の本質について説明

1 河井・案里事件

 検察官は被告人らは投票依頼等を目的に多数の有力者に金銭を交付したもので、買収罪に当たると主張し、被告人らは金銭の交付は当選祝いや陣中見舞い、党勢拡大のための目的であったと弁解主張している。

 当面の主題は「嘘と詭弁の本質的関係」であるから、被告人らの弁解が考察の対象となる。但し、事件が無罪で確定すればその場合には検察官の主張が「嘘」ということになる。本稿ではとりあえず、検察官の主張は真であるとの前提で議論する。

1)被告人らの弁解は嘘か詭弁か  序論

 嘘についての仮定義

 嘘とは物理的存在としての事実の認識に反する言説

 日本の家庭では一般的に幼児に対して「嘘をついてはいけない」という規範をしつける。この場合、幼児に可能なのは体験事実の認識であり、その認識と発言の相異の認識だから、嘘とは第一義的に上述の仮定義となる。

 詭弁についての定義

 嘘が比較的簡明に定義できるのにくらべ、詭弁はその定義自体が複雑である。ここでベン図的論理思考に慣れた人は、安易に嘘は詭弁の部分集合(つまり、一部でしかない)と錯覚する。これがまた、嘘でない詭弁の存在を認め、詭弁の横行を許す心理的原因ともなっている。筆者の主張は嘘と詭弁は同値関係、円で言えば完全に過不足なく重なり合う関係であるから、包含関係は同値というものである。この問題は、そもそも嘘と詭弁は同一平面上にあるものではなく、ベン図的論理関係にないということを指摘しておきたい。以上の前提で詭弁の仮定義を示す。

 詭弁についての仮定義

 詭弁とは観念的存在についての事実の認識に反する言説

 観念的存在には定義概念による観念的存在と、規範概念による観念的存在がある。話が抽象的になっているので具体的な例で説明する。

 法人というのは法律で規定された観念上の存在であるから登記等を見て法人を認識することは定義概念による観念的存在を認識したことになる。

 配偶者の一方が婚外性交をした場合、貞操義務という規範に違反したと判断するから当該行為は違法行為であると判断した場合、当該違法認識は規範概念による観念的存在である。

そして詭弁はこれらの認識に反する言説である。

以上の説明から明らかなように、嘘も詭弁も「認識に反する言説」であるから、本質は全く同じである。しかも詭弁は極めて重大な主題についてもその隠蔽効果は絶大であるから、犯罪性は単なる事実認識の隠蔽よりはるかに重大となる場合が多い。

2)被告人らの弁解は嘘か詭弁か  結論

 一般の人は合理的判断として、自分の選挙前に他人に金銭を交付することは投票依頼であり投票期待であって、陣中見舞い等ではない、と判断するから、被告人らの弁解は嘘と考える。

 また、陣中見舞いは偶然に同時進行した場合の「こじつけ」だから、それは詭弁だと考える。党勢拡大との理由に至っては万能薬的口実であるから、これまた詭弁と考える

 しかし前述序論で定義したとおり、金銭の交付をした本人の弁解であるから、存在しうる論理的判断は詭弁でしかない。しかも詭弁だけで必要十分である。嘘も詭弁も

社会における共同生活の根本である信頼を阻害する効果は同じであり、反社会性は同じだからである。

 実際の生活において嘘と詭弁について厳密に定義して用語を制限する意味は全く必要ないが、曖昧性が便利な分だけ、詭弁が誤解により社会に存在する可能性がある。

嘘も詭弁も自らの利益と保身のための「認識に反する」行為であり、共同社会生活を根本から破壊する最高レベルの規範違反であることを認識すべきである。

2 結語

 嘘も詭弁も不正な言説に対する非難用語であるから、社会に容認されてはならない。

補足

 前安倍晋三政権では詭弁だけではなく、嘘までもが幾度と無く公然と横行した。腐敗頂点社会といっても過言ではない。森友加計事件では幾度も「丁寧に説明する」という元安倍晋三総理大臣の言説を聞かされたが、「丁寧」という言語概念に相当する説明行為は無かったし不祥事で辞任する国務大臣の連続にも「責任を痛感する」との弁解謝罪はあったが、「責任:責めに任ずる」という実際の行為は何も無かった。

「拉致問題は安倍内閣の最重要課題」との言説は安倍晋三自身の口から幾度も聞いたが、在任期間78ヶ月の間に何ひとつ成果は実現せず、拉致された娘に二度と会うこともなく横田滋さんは亡くなった。

 一刻も早く日本から嘘と詭弁を放逐しなければ、健全な国民は育たない。

※参照資料ーー(データマックス)【凡学一生の詭弁の論理学

詭弁の論理学②

 


 

 なお、筆者は最近の橋本の言説には詭弁が目に余るので、念のため橋本がテレビで披露した詭弁の例を示しておく。

3 総裁選をめぐる派閥争いの正当化

 橋本は自民党の総裁選での「派閥争い」について、政治家の「権力闘争」であって当然のことである旨のコメントをした。

 これは「派閥争い」という具体的事象を「権力闘争」という抽象度の高いレベルに言い換えた類型の詭弁である。このレベルであれば政治家なら権力闘争をある意味正当業務として行うという「言い換え」が可能となるからである。

 派閥争いの真の理由は権力闘争ではなく、利権や議員の再選のための行動である。
 国務大臣になることはその資質・能力とは無関係に確実に知名度を上げ、再選に極めて有利となるから、自民党議員の中には大勢の大臣指名待ちがいる。
 派閥に属しなければ事実上国務大臣になれないのだから、派閥に属し、総理大臣の指名競争の時点から勢力争い(数合わせ、人数争い)を展開する。
 このような状況を国民は知っているため、毎回、派閥争いを批判的に見ている。
 これを何か政策上の争いを意味する権力闘争に言い換えたことが正に詭弁の詭弁たる所以である。

4 総理大臣による大儀なき国会解散の是認

 菅総理大臣は遠からず国会を解散するだろうとの「うわさ」について橋本はこれも与党と野党の権力闘争だから許されるとした。
ここでも具体的な総理大臣の解散権が
与党と野党の権力闘争の問題にすり替えられた。
 この問題には二重に詭弁が関係している(詭弁の二重構造)ので、少し複雑・難解かもしれないが、丁寧に説明したい。

 そもそも総理大臣に固有の解散権があるか、という議論が学説でも議論されている。

 憲法上、国会の内閣不信任案に対抗する形で総理大臣に国会の解散権があることは明文上あきらかであるが、それ以外にも総理大臣に固有の解散権があるか、つまり世に言う「大儀なき解散」は認められるか、という問題である。
 このような固有の解散権の存在を天皇の国事行為の規定から正当化する論理となるため、7条解散権と講学上は呼んでいる
 つまり、天皇は国事行為として国会の解散を宣言するから、国事行為は内閣の助言と承認が必要だから結局、総理大臣には解散権がある、という論理である。
 これが逆理と飛躍の詭弁であることはあまり認識されていない。
 天皇には国政に関する権能は一切ないのであるから、天皇の国事行為は完全な形式・儀式に過ぎない。
 実質は全て「内閣」(総理大臣ではない:筆者注)の助言と承認権に存在する。
 従って、国事行為の規定を理由に内閣に国会解散権があるとし、ひいて総理大臣に解散権があるとすることは二重の論理の飛躍となる逆理である。
 なぜなら、内閣(ひいて総理大臣としてよいのか?)には如何なる意味でも国会解散権をみとめる規定は存在しない。つまり内閣に国会解散権を認める根拠がない。
 このように、内閣総理大臣の「大儀なき国会解散権」の問題には重大な論理的瑕疵が存在する。
 これらを全く無視して、橋本は与党と野党の権力闘争を理由に正当化した。
 無論、このような論拠で総理大臣の国会解散権を認める「学説」は存在せず、「橋本一人説」となる。
 「大儀なき解散」は「党利党略による解散」であるから、橋本一人説は「党利党略解散権説」ということになる。

 なお、この問題の背景には日本の法律学の浅薄性がある。それは形式と実質の混同であり、総理大臣と内閣の関係についての法的理解の不足・不存在である。

 総理大臣は確かに内閣の組閣権を持つ。
 それは各国務大臣の任命権である。
 では任命された国務大臣は一体誰に何に対して忠誠の義務があるのか。

 総理大臣もまた国民主権者によって権限が委任された代理人であり、国務大臣も代理人から選任されたいわゆる複代理人であり、忠誠を尽くすべきは本人たる主権者国民であり、単なる任命権者総理大臣ではない。
 論理的には総理大臣の意思と合議体内閣の意思が齟齬することは有り得ることになっている。こんなこととは露しらず、任命権者の総理大臣を「おかみ」とあがめる自民党議員には実質的な力関係だけが認識されている。お粗末な話である。

5 「政策に反対なら異動発令は当然」発言

 菅総理大臣がかつて官房長官時代に「ふるさと納税」政策を推進した際、当該制度が高所得者だけに大きなメリットがあり、かつ、市町村間で過度の寄付獲得競争が起こり、国民に対し公平公正であるべき納税制度が損なわれると進言した総務省の官僚を関連大学の学長へと左遷させた事例に関して批判があるところ、橋本は自己が大阪市長時代に進めた政策について官僚の根強い抵抗にあった経験を引き合いに出し、政治家たるもの、有権者に公約した政策を推進する際に官僚に抵抗を受けた場合には当該官僚を政策推進のために必要だから左遷するのも当然とした。

 何が詭弁か、何処が詭弁かを読者はすぐに判断することはできないと思う。
 それは橋本が実行した実例としての官僚左遷はそれなりに合理的で正当な理由があったから、
それ自体は誰しも異論が無いからである。
 つまり、橋本はこれまた具体的事例について具体的に正当性を議論することなく、政策遂行のために政治家が反対する官僚を左遷することは当然と一般論化(問題の抽象化)した。すでに読者がお気づきのように

 問題は政策の具体的内容であり、官僚の抵抗が理不尽である場合に限り、その理不尽な官僚を排除するため左遷することは当然ということである。
 つまり、橋本の詭弁では菅官房長官の推進した「ふるさと納税」の問題点、官僚ならずとも反対する人がいても当然といえる重大な欠陥があったのであるから、官僚の進言は極めて当然で、左遷された官僚は極めて職務に忠実であった。
 職務に忠実な官僚を問答無用とばかり左遷した政治家の行動は是認されるのか。この問題を橋本は詭弁で隠蔽した。

6 ほぼ日本の裁判官の全員が使う詭弁  

 証拠と結論の関係が全く真逆の関係が帰納的推論と演繹的推論の差異である。結論が先にあって、証拠をその結論に都合のよいものだけを選択して判決を書く。
 これが帰納的推論による判決である。
 但し、文章上の表現は先に証拠を示し結論を述べるから、外形的には演繹的推論の形をして区別ができない。
 では普通の人はどうしてこの詭弁を見破ることができるのか。これは実に簡単なことで、裁判官が訴訟手続の途中で証拠採用を拒否した場合と、あえて証拠を無視した形でその痕跡が残っている。
 ときにはとんでもない証拠の解釈を示すことがある。被告人の歯型と一致しない毒ぶどう酒ビンの王冠に残った歯型について「人の歯型であることには違いない」と認定した。
 また、犯行現場周辺が犯行当時雨天であったとする天候記録に対して、犯行現場300メートル円内は雨天ではなかったと認定した判例等である。
 こんな非常識な事実認定をしても当該裁判官が何らの責任を負わない司法権の制度が欠陥制度であることは言を待たない。

 友人の弁護士が言っていたが、司法修習の裁判研修は現役の裁判官が指導教官となるが、その教官が、判決は先に結論を決めて、それに都合のよい証拠を羅列して書くと説明したという。この話を聞いて裁判官達は確実に著明な法学者・法社会学者である川島武宜博士の名著「科学としての法律学」を読んでいないことが明白である。

 川島博士は同著で、判決を帰納的に書く方法を厳しく批判し、判決は全証拠から演繹される結論でなければならないとした。
 つまり、判決と矛盾する証拠が存在する場合、それは判決が帰納的推論で書かれた証拠であり、科学的論理性に欠けると指摘された。
 こんな論理的推論におけるイロハは理系学生なら誰でも理解し知っているが、文系の最高位とされる司法試験の合格者の中のさらに成績上位者である裁判官がこんな知性のなさが実態である。
 件の友人の弁護士は二人の息子を医者にしたが、裁判官や弁護士の実態を知っていたからではないかと勝手に推理している。

7 定性的概念と定量的概念の故意の混同

 「不適切であるが違法ではない」という迷言は近年、ヤメ検によって創作された詭弁である。
 普通の人には概念的理解ができないため、不適切の場合には違法ではないから、先に事案について不適切がどうかを判断して、不適切であると認識してもそれは違法ではないと言えると錯覚してしまう。
 すると違法なものは論理的に、不適切ではなくなる
 こんな馬鹿げた結論を導き出すから、ヤメ検の発案した迷言は確実に詭弁であることが理解できる。そこでこの詭弁の類型的本質は何かを考えた場合、それは「不適切」概念と「違法」概念の性質の違いにあることに気づくことになる。

 違法はある法規範に違反することであるから、判断には違法か合法の2つしかない。

二者択一、二律背反である。一方、「不適切」は判断者の価値観に異存し、無限の段階が存在し、かつ、論者によっては同じ事象であってもその判断は分かれる。違法が定性的であるのに比し、不適切は定量的であるからである。そもそも並び比較することが出来ない概念同士であった。

 筆者は平気で判決文に有りもしない嘘を書く裁判官がその判決文の理由の中で、

著しく不合理とはいえない」という日本語を使った。合理・不合理は違法と同じく二者択一・二律背反概念であり、「著しく」という形容詞は程度概念であるから、この日本語の命題は完全な論理矛盾であった。
 イメージとしては「少しは不合理であるが、
その不合理は許容される程度である」というものであろうが、そんな日本語をまともに理解できる日本人はこの世にいない。

 裁判官はこんなことが平気でできる人種である


※参照資料ーー(データマックス)【凡学一生の詭弁の論理学

詭弁の論理学①

 


 日本社会は崩壊の危機に瀕している。

 文明の崩壊である。

 一見、高度の科学や文芸を持ち、大量消費生活を謳歌する大多数の国民は日本の文明が崩壊の危機に瀕しているなど夢にも思っていない。

確かに社会・文明の崩壊が2年や3年後に到来するという意味ではなく、例えば明治維新から百年や五十年の時間の間隔で見た時、日本に芽生えた文明が確実に崩壊消失する兆候が見られるからである。
 それは「詭弁」があらゆる階層に氾濫し、言語の持つ信頼性が喪失しているからである。人と動物を明確に区別する道具は信頼を確認することができる言語である。
 言語を持たない生物集団は精々個々の寿命期間にのみ集団として地上に存在しうる。
 アフリカ砂漠のヌーの大集団は単なる生殖による種の継続に過ぎず、社会を形成し文化を持った生物集団ではない。
 人間が人間らしいつまり人間性を持った集団として社会を形成し文明を継続維持しているのは、基本的に言語の存在と機能に負う。

詭弁は確実に日本の民主主義を破壊している。

日本に真の民主主義を実現させるためには詭弁の存在形式を理解し、詭弁を少なくとも日常社会生活から排除しなければならない。

 詭弁の論理学は今の時代に最も必要な社会知見である。
 詭弁はわかりやすくいえば「うそ」であり、「うそ」が蔓延する社会がまともな社会である筈がない。

1 詭弁の存在形式

 詭弁の存在形式は3類型しかない。
それは①定性的議論と定量的議論のすり替え
   ②具体性のレベルと抽象性のレベルのすり替え
   ③帰納的論理と演繹的論理のすり替え(逆理)、
の3類型である。

 人間のすなおな感性で虚偽性を感じた場合、論理的にこの3類型のどれかに詭弁は集約される。以上の基本論理を理解した上で、現実の社会的詭弁について実例で実証する。

2 前川喜平と橋本徹の論争

 菅新内閣の誕生に際し、テレビでは時事解説番組が大流行である。
 そんな中、有名弁護士で政治評論家である橋本徹のテレビ番組での発言をめぐって、前川喜平が文句を付けた。
 「野党を貶め、菅政権を褒めるだけの言説で、(時事問題の公正な討論や解説になっておらず:筆者注)何の目的で呼んだのか。もう呼ぶな」旨の主張をした。
 これに対して橋本徹が、「言論の自由を知っているのか。「もう呼ぶな」ではなく「自分もテレビに出してくれ」というのが筋だろう。
 正々堂々とテレビで公開討論をしよう。いっぱい聞きたいこともある。」旨の反論で応戦した論争である。

1)ディベートと口喧嘩

 日本では基本的に民主主義に必要な主権者教育が存在しない。
 理性的な議論であるディベートを知らないし、教えてもらっていない。
 前川も橋本も個人の私利私欲に関する論点について議論をしていないのだから、議論は冷静に理性的に行われなければならない。
 その基本は相手への敬意や尊敬である。前川は東大法学部を優秀な成績で卒業し、文科省に入り事務次官まで上り詰めた極めて優秀な官僚であり、一方、橋本も弁護士資格を持ち、政治経験の豊富な、頭の回転の速いエリートである。
 このような日本を代表する頭脳の持ち主による議論であるから、一層、詭弁が氾濫横行することは非常に残念なことである。

 (筆者のおことわり: 橋本が具体的にどのような発言をしたのかを知らないため、前川の批判の当否を述べることができない。しかし、本稿は、橋本の発言の当否を議論する目的ではなく、前川の下品な口調の「難癖」に橋本が同程度の論調で応じた日本を代表するエリートの論争の当否を論点としている。)

 もし、二人の間の論争がただの口喧嘩であれば、最後には人格的な攻撃にも進展し、全く分析検討の余地もない下世話な「言い争い」で終わる。文言は多少、過激であり下品であるが、これは故意の表現技術・強調表現という風に筆者は理解している。

 本稿の目的である詭弁の氾濫という視点から言えば橋本の反論が詭弁ということになるが、読者は橋本の反論の中に詭弁を見出すことができるだろうか。

 (2) 第一の詭弁 言論の自由

 橋本が「言論の自由」を最初に口に出した時点でこの論争の勝敗は決していた。

 勿論、橋本の大敗北である。世間には橋本のファンが多く、憲法上の大原則、言論の自由が持ち出されたのだから、一見、橋本の言説には憲法上の保障つきと錯覚したに違いない。
 しかし、「言論の自由」が議論の当事者の主張場面、つまり自己弁護で登場することは絶対に無い。
 それは「言論の自由」が主張される場面は、通例、権力や理不尽な事情理由で個人の言論の自由が制限された場合であって本件では前川が単に橋本の「既に発言した内容」つまり橋本は言論の自由の権利を行使済みであって、どこにも前川の論難が橋本の言論の自由を侵害する要素はない。
 では何故、橋本は言論の自由を持ち出したか。それは橋本の具体的発言内容からより抽象的な議論へとすりかえる目的があったからである。

3)第二の詭弁 「もうよぶな」

 この文言は橋本の発言を批判したものではないから橋本は反論する立場にない。
 にも拘わらず橋本はこの前川の表現を強く非難した。まるでテレビ局の弁護人である。

もちろん、前川はテレビに出て橋本と議論したいなど毛頭も念頭にないにも拘わらず、

批判するなら「もうよぶな」ではなく「自分をテレビにだしてくれだろう」と前川の主張の骨子・批判の骨子が、偏った論評(と前川には写った)にあることを故意に「出演の要請問題」にすり替えた。
 これは橋本が自分の具体的発言を論点争点にすることを強く回避したがっていることを示している。
 筆者は何度も言うように当該テレビ番組を見ておらず橋本の発言を知らないが、橋本が当該発言を争点とすることを強く回避していることを感じる。
 議論に自身のある橋本が見え見えの回避をするのだから、やはり前川の批判は的を得たものと思われる。

 少なくとも橋本には発言の根拠を説明することができないことは明白である。

4)第三の詭弁 「正々堂々」

 前川に対し「テレビに出て橋本と対面で議論することが正しい批判のあり方であって、ネットで批判することは「正々堂々」ではない」との反論がされた。
 これもまた批判の内容ではなく、批判がネットでされたことに対する問題への議論のすりかえとなっている。
 匿名の批判であれば無視されたであろうが、高名な言論人の顕名批判であっただけに、あたかもネットでの匿名批判かの如きレベルに扱った。
 現に自分が「反論」をネットでしているのにあきれた矛盾論である。

5)第四の詭弁 「いっぱい聞きたいことがある」

 もっとも下品な恫喝的発言であり、前川の批判に対する反論とは無縁のものである。

 前川にはいっぱい非難される言動言説があるかの如き反論であり、ほぼ人格攻撃に近い。何も知らない人からみれば、まるで前川には人を批判する資格などないと反論されているように聞こえる。
 このような下品で論理性のない反論を橋本は堂々と行うから、かえって聴衆受けするのだろう。

 ※参照資料ーー(データマックス)【凡学一生の詭弁の論理学

2021年3月20日土曜日

日本学術会議委員選任拒否事件②

 

またも飛び出した橋下徹弁護士の詭弁

 橋下は菅義偉総理大臣の任命拒否を「当たり前だ」と発言した。そしてその「当たり前」の理由の一つなのであろう、「推薦がなく勝手に任命したらアウトだが推薦がでてきたらそれに対して任命拒絶は当たり前だ」旨の発言をした。

 この橋下の論理を聞いて「当然の理由」を理解した人がいたら噴飯ものだが橋下ファンは全員、「当然だ」と付和雷同したことだけは事実である。
 当然の理由を述べて当然だと主張する言説ではなく、ただ、あまりにも有り得ない当然の事理をあたかも当然の理由かの如く前段に述べて、真の当然の理由は全く述べず、単に結論的に当然と断定しているに過ぎない。

これに類似した詭弁を「不適切ではあるが違法ではない」との舛添要一が現代に免罪符を再現させたと後世の史家から評価されるに違いないヤメ検に依頼して政治資金規制法違反容疑を闇に葬った事件に見出すことができる。

ともに「~だが、~である」という構文の命題だが、前半部分は後半の結論とは全く論理的関係がないが一見、論理的関連があるように錯覚させる論法である。両者ともに理由なく「任命拒絶は当たり前だ」「違法ではない」と述べているにすぎない。

しかし、さすがに橋下は自分の論理の致命的欠陥を意識しており、その手当ての言説が、それに続く「霞ヶ関の人事と違って、別の独立組織の人事なので拒絶した理由ははっきり伝えるべき」と発言した。

「霞ヶ関の人事」つまり公務員人事ではないからそもそも任命権も拒絶権もなくあるのは形式的な任命行為だとすべきところを、またまた「理由」の必要性の問題にすり替えた。つまりここでも「拒絶権の存在は当然」が前提となっている。しかし、もともと菅義偉総理大臣には正当な拒絶理由など無いことは橋下も知っているのだから

よくもまあ、その場しのぎの言説を弄するものである。事態の進展では「拒絶権は当然だ」との論評が世間の批判を浴びて撤回せざるを得ないかもしれず、その場合の保険をこの詭弁に託しているのだろう。

1 ついに2大詭弁家揃い踏み

 先に本件事件に関する弁護士橋下徹のあきれた詭弁について解説したが、筆者の予言どおり、加藤勝信官房長官も稀代の詭弁家として参戦してきた。あまりにも酷い論理であるから、簡単に指摘する。

 加藤官房長官は、今回の菅首相の拒否権は、学術会議会員が「特別公務員」であること、及び、会議運営の経費が国庫から支払われていることから、菅首相の任命権と拒否権には正当な根拠があると説明した。

 国会議員も「特別公務員」であり、国会議員の活動経費(歳費も含めて)は国庫から支出されているから、総理大臣に任命権や就任拒否権があるか、と言えば、誰もが

「馬鹿げた論理だ」と理解するだろう。全く本質を無視し、明らかな「こじつけ」の論理である。

2 テレビでの報道で欠けている本質的議論

 本件事件は学術会議という法律により制定された独立団体の制度趣旨にそった「自治権・主体性」を認めるか、たまたま法律上の文言「任命する」という用語に総理大臣の支配権を認め学術会議を総理大臣の支配下に隷属させるかの「解釈」問題である。
 これは一方で「推薦」という用語の意味を「軽んじる」ことと対になっている。

 法技術的には学術会議が決定した人事を総理大臣が念のため「承認する」とでもしておけばよかったが、実際に政治を支配する官僚達は常に自分達の支配の可能性を残す「文言」を使用する。
 現実の国会議員たちは全く何も知らないのであり、今回の騒動も「任命する」という文言の解釈から発生しており、学術会議の設立の趣旨や期待される権能を全く無視した議論である。
 行政行為の中にさえ、独立性が必要な行政行為があり、それは「独立行政委員会」として内閣から、つまり総理大臣から独立している。
 国民は教えられていないから知らないが、検察庁は制度的には法務省の一部局であるが、検察権の行使は時の内閣からはかなり明確に独立している。
 因みに検察官の身分は普通の公務員であり特別公務員ではない。

3 橋下弁護士と宇都宮弁護士の論争

 (1)宇都宮は「任命する」という文言があっても形式的なものもあれば実質的なものもあり、天皇の国事行為における諸任命は形式的なものの代表例とした。そして学術会議会員についての「任命する」という文言も形式的なものであると主張した。

 これに対して、橋下は奇妙な意味不明の多義語「民主的統制」という術語を用いて

 天皇の任命権が形式的なものであることを説明し、かつ、学術会議には民主的統制が必要だから当然、形式的任命権ではないと主張した。

(2)橋下の詭弁 その1

国事行為の場合も学術会議の場合にも「任命する」という用語は1回しか出現しない。
 用いられていない。それを無視して、国事行為の場合には総理大臣が先に「民主的統制」として「任命」しているから、天皇の「任命」は形式的なものであり、当然拒否権はない、とした。橋下がいかに論理を無視した詭弁を弄するかはこの例の場合でも明白である。
 先ず、任命権者天皇に対しては「内閣」が助言と承認を与えるのであって総理大臣個人ではない。総理大臣の個人的任命権を論ずる余地はない。
 勿論 
実質的には総理大臣の意思に閣僚全員が同調したとしてもそれは実質的な話であって法的論理のレベルでは内閣という執行組織体の判断が論理的存在である。
 そして言うまでもなく、内閣にはいかなる職位にたいしても任命権は存在しない。

橋下の主張は法令の解釈問題とは別次元の「政治学的理解」「法社会学的理解」の世界である。

 もっとも橋下の論理の詭弁性は「民主的統制」という術語の使用である。
 現在の論争の骨子は「任命する」という文言について実質的な権利かそれとも形式的な権利かについての議論であって、実質的な権利の場合に認められる民主的統制の効果を先に前提して議論することは帰納的論理(「先に結論ありき」の論法)に外ならず、先に筆者が指摘した詭弁の論理の一形態である。
 従って、橋下の論理では学術会議への民主的統制は当然の前提となっている。
 この民主的統制という用語で橋下が何をイメージしているかは不明であるが、そもそも政治的には明らかに中性である学術団体に民主的統制の必要があるとする根拠、具体的内容理由が全く不明である。
 これは自衛のための戦争といって全ての侵略戦争が開始された歴史の教訓を思い出せば、民主的統制の必要があるとして学術団体に介入し、結局、自民党色に染め上げるのではないかとの危惧を国民に抱かせるものである。
 これを応援するのが橋下の論理となる。

 (3)橋下の詭弁 2

 橋下は恐らく行政争訟の基本を知らない。
 行政処分における不利益処分については、
処分の理由を示すと共に、それに対する不服申立方法の教示を必要とする
 そしてそもそも行政処分は申請者の申請と受理から手続が開始される。
本件事件ではそもそも、
菅総理大臣が任命した場合においてもそれが行政処分であるかどうかが疑わしい。

 もし、任命拒否が行政処分であれば、理由も述べず不服申立方法も教示していないことだけで違法処分となる。議論の余地はない。

 (4)任命行為の本質

 総理大臣には国務大臣の任免権がある。
 国務大臣は行政の一部を受任するから行政全体の最高責任者である総理大臣の任免権が正当化される。
 では学術会議の会員が行政の一部の執行を総理大臣から委任されているか。
 逆に、学術会議での活動は本来的な行政であり、総理大臣が学者に委任して執行すべき内容か。
 明らかに行政ではないから、如何なる意味でも総理大臣が業務を委任する関係、つまり、任命する関係にない。
 つまり、任命は明らかに形式的なものである。任命とは、総理大臣が保有する行政執行責任の一部を委任する関係であることを理解すれば、橋下の詭弁は雲散霧消することは明白である。

※参照資料ーー(データマックス)【凡学一生の日本学術会議委員選任拒否事件

日本学術会議委員選任拒否事件①

 

1 事案の概要

 菅義偉総理大臣は日本学術会議が法律に基づき推薦した委員のうち6名の選任を拒否した。これは日本学術会議法第17条及び第7条に基づく行為と菅義偉は弁明した。

※参考資料:e-Gov条文:日本学術会議法

2 問題の所在

 総理大臣に、推薦された会員候補者について任命拒否権があるか否かであるから、基本的には総理大臣に選任権があるかどうかの問題である。
 選任権が無いのに選任拒否権があるというのは法論理的には重大な矛盾だからである。
 それは例えて言えば天皇は「形式的」に総理大臣や最高裁判所長官を任命する(憲法第7条第5項)。
 しかし勿論、条文のどこにも「形式的」の文言はない。
 それは、天皇は象徴であって国政に関する権能がないことが前提として存在するからである。
 選任をあえて「選定」と「任命」に区別すれば、選定が実質で任命は形式ということになる。

3 日本学術会議法第7条の前提

 同条で規定されている学術会議会員の総理大臣の任命権には明白に重大な前提事項が存在する。
 それは天皇の国事行為には重大な前提となる「内閣の助言と承認」が存在するのと全く同じ法的構造である。
 それが学術会議による「推薦」である。
 これは天皇の国事行為が「形式的」であることをあえて文言で表現しなくても論理的な解釈(これを講学上文理解釈という)により当然「形式的」なものであることが共通の認識として存在するからである。
 つまり、同条の総理大臣の任命行為は憲法第7条第5項と同じく、当然に「形式的」なものである。
 形式的な任命権であるから当然、実質的な選任権の存在を論理的に前提する、任命拒否権は存在しない。

4 日本学術会議の存在及び期待される行動は行政行為ではない

 先ず、会員は公務員ではないから会員の如何なる行為も行政行為・処分としての法的性質はない。
 従って、行政権の最高責任者である総理大臣の政治責任、法的責任も発生しない。
 総理大臣の公務員に対する任免権は総理大臣の責任の有無に直結しているから認められるのであって、無関係の者の地位に介入関与する理由は存在しない。

 では何故、総理大臣の会員任命権が認められるその必要性は何か。
 それには理由が二つある。
 一つは日本学術会議の存在形式、法的形態にある。
 公務員が多数天下りして第2、第3の就職先にしている「公益法人」形態であれば、その理事長、理事の選任ひいて従業員は「自治的」に決定できる。
 日本学術会議は「団体」であっても、もっとも原始的な形態であり法的自治が制度的に保障されていない(法人格の不存在)。
 それは学者集団の知性の高さにあると思える。
 会長の地位に利権が伴うこともなければ、会員もその地位に恋々としない。
 学者として世間に有用であるかどうかは自分自身で判断できる。

 二つは、運営経費は国費が投入されるから、その点だけで国家が関与する。
 いわば総理大臣の会員任命規定はその国費投入の象徴的規定に過ぎない。
 例えば、教育学問研究団体である学校法人に国は助成金を支給しているが、自治的法制度が整備されているから、理事の任命に総理大臣が関与することもない。
 関与すれば権限濫用行為との非難を受ける。
 今回の菅義偉総理大臣の任命拒否は正しく権限濫用である。

5 争訟

 菅義偉総理大臣の権限濫用行為についての争訟はその利害関係と侵害利益の内容により当事者が異なる。

 学術会議は推薦権の侵害、妨害を受けたことを理由に任命拒否を争い、総理大臣の任命に代わる「判決による任命」を裁判で勝ち取り、同時に菅義偉個人に対する損害賠償の請求が可能である。
 権限濫用行為は単なる不法行為と構成することができるからである。

 問題は任命を拒否された6名の学者らである。
学者らは「会員であることの地位の確認」訴訟を提起することは恐らく法律学者の間でも意見が分かれるところだろう。

 しかし、少なくとも利害関係者として総理大臣の行為を違法な行政行為として処分無効の行政訴訟を提起することができる。
 そして、行政処分には理由を付する必要があるため、その任命拒否の理由も求めることができる。

 しかし、これについても有名な宮本判事補再任拒否事件判例があり、最高裁判所自身が採用権者として不採用の理由を開示する義務はないとした。
 ここでも、採用権限の有無、任命権限の有無がポイントとなるが、前述のように総理大臣には実質的任命権限が無いのであるから、理由の有無に拘わらず違法となるか、少なくとも任命拒否の「正当」な理由の開示が求められるだろう。
 しかし、日本の裁判官が、自分の任命権者である総理大臣を糾弾できるかを考えたとき、裁判は長期化し全く結論は見えないものとなる。

6 外野の頓珍漢論評

 舛添要一は「東大教授」の経験から、日本学術会議は全く、若い新進気鋭の学者には老害そのもので制度そのものが税金の無駄遣いとする見解を発表した。

本件事件は総理大臣の任命拒否が正当かどうかが論点であるから、舛添要一の自慢の元東大教授の肩書きも「馬鹿の象徴」となっている。全く関係の無い議論で、単なる経歴自慢の論評である。

 学術会議での会員の行動や意見・見解の表明は「学問の研究」でもなければ、会員になれないことが「言論の自由」を侵害する行為でもないから、これらの人権の侵害だとする論評も飛躍しすぎた論評である。


※参照資料ーー(データマックス)【凡学一生の日本学術会議委員選任拒否事件】

2021年3月18日木曜日

凡学一生の優しい法律学②

 

憲法改正の基礎知識

予感

 強力な憲法改正論者の安倍総理大臣が辞任して次期総理大臣も事実上菅義偉官房長官に決定したので、次期政権が安倍政治の継続と看板を掲げても憲法改正までは継続承継しないことは確実である。
 それは生まれながらの総理大臣として育った安倍晋三(世襲議員)とそうではない菅義偉の出自の違いによる。

 安倍晋三は、選挙区の支援者が主権者でありその付託を受けて国会議員になっているという民主主義の基本を生まれながらにして知らずに成長した。
 支援者が自分に投票するのは当然であって、それは父の時代から続く、「自然の摂理」であった。

 これは安倍晋三の憲法改正への意欲にもよく現れている。憲法改正は最終的に国民投票による賛否の決定を受ける。

国民に対して一切主権者教育・憲法教育をしないで

ただ、安倍改正案に対して○×をつけるだけの投票をさせ、それで改正が達成されると信じている。
 世襲議員全員が持つ主権者国民に対する、自分の意向に無条件に賛成する支援者=投票マシン観である。さすが「ジバン」の譲受人・相続人である。

 従って、いまさら憲法改正について、基礎知識全般を声高に解説しても無知の国民には何の足しにもならないだろう。

 それでも誰かが警鐘を鳴らさねば日本はますます無法国家になる。

※参考資料:e-Gov条文:憲法
     :日本法令索引:憲法
     :国立国会図書館「日本国憲法の誕生」

1 法律改正と憲法改正

 同じ国家規範でありながら、法律と憲法との違いの一つは改正手続きにある。
 日本国憲法は改正が困難な条件にしてあり、硬性憲法に分類される。
 つまり、憲法自身に改正手続が規定されており、それは各議院の国会議員の総数の3分の2の賛成を得て、発議し、国民投票に付し、過半数の賛成を得なければならない。
 法律は国会、特に衆議院の過半数で基本的に成立する。

2 憲法の制定と改正は本質が異なる場合がある

 法律も憲法も国家を支配する権力者によって制定される。
 これは国家規範の制定を政治学的視点で述べたもので、正統的法律解釈学には存在しない視座である。

 日本は敗戦によって戦勝国(その代表者GHQ)によって明治憲法が廃止され日本国憲法が制定された。
 但し、法技術的には明治憲法の定める改正手続に則った形式であるため、GHQが全面にでることはなかった。
 憲法施行後半世紀以上の時が経過した現在、事実上の憲法改正権者は国会(衆議院)の過半数を制する政党(現在は自民党)にある。
 GHQは消滅した。つまり、制定権者と改正権者に同一性はない。

 これも日本の特殊な憲法事情である。

3 憲法改正に関する2つの主張論の系譜

 東京大学法学部教授らいわゆる権威と称される学者群によって構築された憲法解釈学の系譜と、主に政治家や評論家らによって構築された実践的憲法解釈論―主として日本国憲法がGHQの主導により明治憲法を換骨奪胎して成立した経緯を問題だとするいわゆる「外国製憲法」論である。

 前者の権威主義学説は当然ながら憲法条文全体について考察するが、後者の論者は主として憲法第9条の改正のみを議論する、際立った特徴の差異がある。現在の政治状況としては、外国製憲法論者が多数を占める政治家(自民党)主導の憲法改正運動である。

 国民は最初から最後まで「蚊帳の外」におかれた憲法改正議論である。その最大の原因は国民がまともな憲法教育を受けていないからである。この全く憲法について無知な国民に○×のみの応答をさせる憲法改正手続が議論されてきた。

 全く無知な対象について○×投票させる例が最高裁判所裁判官(信任)投票(国民審査)であり、改正主張政治家らは幾度も成功体験を味わってきており、国会の発議にまで至れば事実上の改正が達成されると考えている。

 ここにも日本の民主主義の否定・不存在が垣間見える。

4 改正論の選択

 本来なら日本国憲法全般にわたり必要な改正論を展開するのが正道であるが、憲法の知識や素養が全くない一般国民の大多数という現実を直視するなら、当面、論点となっている第9条改正に関する基本知識を学ぶのが順序だろう。

5 9条改正の歴史的経緯

 戦争放棄条項、その具体的内容の一つである軍事力(戦力)の不保持は、戦勝国が戦敗国に対して「おしつける」(求めるという表現でもおなじで、単なる用語の違いであるが、政治家・評論家にとっては、この表現こそが、無知な国民にもっとも扇情的であり訴求力の大きい表現である。印象操作。)ことは、全く不当でも国際法違反でも何でもない。東京裁判の国際法違反性とは明らかに本質を異にする。

6 9条改正議論の背景・本質

 ただ、この「おしつけ」には現実の国際情勢・共産主義国家群と自由主義国家群の対立というパワーバランス上においては、重大な欠点を有する。それは現実に日本の国の防衛は誰がどうやって行うかの問題である。9条は外国軍隊による防衛を前提とした平和条項であることは明白である。

 つまり、日本は現在も日米安保条約によって、米国の軍事力の庇護下にあり、この基本的関係は戦後一貫して継続されてきている。そうであれば、9条改正がこの米国の軍事力の庇護下にある状況を変革するものでない限り、全く無意味な改正ということになる。

 但し、今後正々堂々と軍事力を強化し、核兵器まで保有する軍事大国(政治家の言う自律国家)になるための第一歩として位置付けるなら、改正には意味がある事になる。それは同時に平和憲法の理念を捨て去ることを意味する。

 しかし、アメリカが日本の軍事的属国の実態を放棄することも現実的ではない。根拠も理由もない。

 なによりも日米安保条約の破棄が論理的前提となるが、自民党の9条改正論者で同時に日米安保条約破棄主張者は皆無である。むしろ普天間基地移転問題では積極的に辺野古移転を推進し、米国の意向に沿う政策を実行している。

 安倍晋三が何処までの政治的展望をもっているのか、その本心を本当に国民に開示するかは、現在までの「嘘」と「弁解」の強弁政治、隠蔽政治をいやと言うほど見せ付けられてきた国民には懐疑的にならざるを得ない。

 かつて安倍晋三は、誠実な自衛隊員が憲法違反よばわりされる状況は忍び難いと発言したが、当の自衛隊員にはそもそも憲法違反という自覚は存在していないほど、憲法変遷現象が進展しており、あきらかにこの理由は安倍晋三の独善であった。

 つまり、9条の文言上の改正は全く事実関係に何の影響をもたらさない。ただし、9条を解釈合憲とする解釈技術に「自営の為の」という枕詞が考案されてきたが、これが事実上不要・死語になる。

 そうすると、現在問題となっている「敵基地攻撃能力」の問題も消失するから、一定の軍備拡張は自由な政権政党の政策選択問題となり、日本の軍需産業と蜜月関係にある族議員には利権の拡大となる。ひょっとしたら、米国の軍需産業と地下で手を結んでいるのかも知れず、確実に軍事力拡張が実行されることは明白である。

 9条が改正され、堂々と軍事力が拡張され、国家予算が兵器整備に投入されるようになってからでは「阻止」は不可能である。一説では徴兵制も心配されているが、利権の伴わない政策は自民党は行わないから、その点は心配無用である。

 9条だけが自民党によって議論されるのはまさに9条が巨大な利権条文だからでもある

7 自民党が独裁的な利権政党である憲法制度的理由

 これは現行憲法制度である議院内閣制とその他の三権分立否定条文にある。国民が真に国民主権者として憲法改正するなら、この根本的制度矛盾を是正しなければならない。これは日本から利権政治を放逐することも意味する

 そのためには難解でもなんでもない平易な日本語で記述された日本国憲法を権威主義的ではないアプローチにより理解することで可能である。はやく日本国民が権威主義の呪縛から解放される日が来ることを強く希望して結語としたい。

※参照資料ーー(データマックス)【凡学一生の優しい法律学】



2021年3月8日月曜日

凡学一生の優しい法律学①


 

熊本典道元裁判官の死

1. 父から教わった裁判官神話

 筆者は幼少のころ、たびたび小銭を握って闇米買いの小使いをさせられた。その度「闇米などの違法な米を食することはできない」として餓死した裁判官の話を父から聞かされた。子ども心にも警察に捕まるかもしれない犯罪行為をしている恐怖心があり、父から聞いた裁判官の話は筆者の脳裏に深く刻まれた。

 大学の法学部に進学した筆者は当時多発していた冤罪事件に興味をもち、文献を多読した。当時、冤罪の原因者は警察・検察官とされ、彼らが非難の矢面に立たされていた。しかし、どう考えても最終的に判断したのは裁判官であるため、裁判官の責任がどうして問われないのだろうか、との疑問が強く残った。

 当時すでに新進気鋭の刑事法学者であった小田中聰樹(おだなか・としき)教授のゼミにも参加したが、やはりそこでも裁判官を非難する講義を聴かなかった。小田中教授の提唱した「検察官司法」という標語が一世を風靡した感もあり、闇米を拒否して餓死した裁判官の話が気になっていたところ、同じ疑問を追及した人がそのような事実は存在しないことを世間に発表した。

 しかし、日本の裁判官の極端な純潔性、潔癖性はすでに都市伝説(昔はこれを単に神話と表現していた)となっており、冤罪の基本的責任が裁判官にあるという極めて当たり前の論議が市民レベルで発生することはなかった。このことは、市民のなかにいまでも根強く残っていると感じられる。

2. 熊本元裁判官の懺悔

1人の無垢な人間が無残な冤罪でその一生を踏みにじられたのが、袴田事件である。

 熊本典道氏はその第1審の死刑判決を起案した裁判官であり、自己の良心に反する判決文を書かされたことで、裁判官を退職し、野に下った。その後、無罪の心証を世間に公表し、袴田再審請求事件にも積極的に協力した。これは冤罪事件ではほぼあり得ない事情であったため、世間の注目を浴びた。

 先日の熊本氏の死去にあたり、その裁判官として「評議の秘密」を暴露したことについて一部で論議を呼んだことが報道された。実はこの問題には、法哲学上の永遠の難問「悪法もまた法なりしか」が存在しており、国民の法的基礎知識として、わかりやすく解説したい。

3. 裁判所法

 下級裁判所(地方裁判所)の合議体についての管轄規定は、裁判所法第26条にあり、その評議の秘密は第75条、評決については第77条に規定されている。裁判所法という法律の存在も知らない一般人がほとんどであるため、熊本氏に対する法律違反の指摘は弁護士か裁判官から出たものである。

 問題となる条文は75条であろうか、それとも77条であろうか。評議の内容を秘密とすることには問題がないため、75条の規定には問題がない。評議の評決を多数決と規定する77条にいかなる問題があり、77条がなぜ「悪法」となるのかを取り上げる前に、熊本氏に成立する法的正当性について説明する。

※参考資料:e-Gov条文:裁判所法

4. 裁判官の憲法上の権利義務

 裁判官は独任制の司法権執行者であり、職制上の上下関係もその判決権限には影響しない。法に定められた審級制上の上級審の判決変更権も、対等な司法権同士での制度的変更権に過ぎない。

 正確な法的構造を教えられていない一般の国民は、地方裁判所の裁判官より高等裁判所の裁判官が「偉い」と理解している。裁判所につけられた名称が、「地方」から「高等」、そして「最高」となるため、そのように理解するのも止むをえないが、実態としては、運転免許証と同じように、裁判官は全員が司法試験合格者という横並びの能力者群である。

 余談となるが、職制上、上位の地方裁判所「所長」が、個別の事件の内容について口を出して大問題となった事件が、有名な「平賀書簡事件」である。

 憲法第76条3項は、「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法および法律にのみ拘束される」と規定しており、条文の文言中の「独立して」という言葉が原則的な独任制機関を意味している。

 熊本裁判官は当時、裁判官としては良心に反する死刑判決文を書かされたものであるため、それが憲法違反となることは誰も否定できない。それが起こった原因は、評決を多数決とする前記77条にあるため、77条が悪法であることは理解できる。ではなぜ、評決を多数決で決定することが悪法となるのか。それは、評決に事実認定とその法的評価という2種類があることに原因だ。

 真実は1つしかないため、真実、つまり事実認定を多数決で決めることはできない。認定された事実が何罪の構成要件に該当するか、どの程度の科刑が相当かという見解については意見がわかれてもおかしくないため、多数決で決することも不合理ではない。

 以上を要約すると、有罪無罪の評決(とくに死刑評決)は全員一致でしか行えない。多数決で行える評決は、罪名と量刑のみである。当時の裁判長の訴訟指揮が法律の根本的誤解にあったため、評決自体が無効であり、保護すべき評決は存在せず、評議の秘密の規範違反も成立しない。

5. これからの日本に必要なこと

 日本社会で生きていくのに必要な法的意識は、第一義には親が子に教える。弁護士や裁判官ですらまともな法知識をもたず、常識はずれの人間が大手を振って歩くなか、一般市民が、子どもたちのために適正な法意識の教育をすることは困難である。

公教育による法的権利意識の教育が急務である。

 このような社会の実情を反映したのが、熊本元裁判官の懺悔事件であった。熊本元裁判官は重病の病床においても、悔悟と懺悔の涙で泣き崩れた。死の直前において純粋な人間性を示した姿に多くの人が心を打たれた。

※参照資料ーー(データマックス)【凡学一生の優しい法律学】

2021年3月7日日曜日

ブログを開設

 凡学一生の法律談義のブログを開設しました。

皆様からのコメントをお願いします。