2021年3月24日水曜日

詭弁の論理学①

 


 日本社会は崩壊の危機に瀕している。

 文明の崩壊である。

 一見、高度の科学や文芸を持ち、大量消費生活を謳歌する大多数の国民は日本の文明が崩壊の危機に瀕しているなど夢にも思っていない。

確かに社会・文明の崩壊が2年や3年後に到来するという意味ではなく、例えば明治維新から百年や五十年の時間の間隔で見た時、日本に芽生えた文明が確実に崩壊消失する兆候が見られるからである。
 それは「詭弁」があらゆる階層に氾濫し、言語の持つ信頼性が喪失しているからである。人と動物を明確に区別する道具は信頼を確認することができる言語である。
 言語を持たない生物集団は精々個々の寿命期間にのみ集団として地上に存在しうる。
 アフリカ砂漠のヌーの大集団は単なる生殖による種の継続に過ぎず、社会を形成し文化を持った生物集団ではない。
 人間が人間らしいつまり人間性を持った集団として社会を形成し文明を継続維持しているのは、基本的に言語の存在と機能に負う。

詭弁は確実に日本の民主主義を破壊している。

日本に真の民主主義を実現させるためには詭弁の存在形式を理解し、詭弁を少なくとも日常社会生活から排除しなければならない。

 詭弁の論理学は今の時代に最も必要な社会知見である。
 詭弁はわかりやすくいえば「うそ」であり、「うそ」が蔓延する社会がまともな社会である筈がない。

1 詭弁の存在形式

 詭弁の存在形式は3類型しかない。
それは①定性的議論と定量的議論のすり替え
   ②具体性のレベルと抽象性のレベルのすり替え
   ③帰納的論理と演繹的論理のすり替え(逆理)、
の3類型である。

 人間のすなおな感性で虚偽性を感じた場合、論理的にこの3類型のどれかに詭弁は集約される。以上の基本論理を理解した上で、現実の社会的詭弁について実例で実証する。

2 前川喜平と橋本徹の論争

 菅新内閣の誕生に際し、テレビでは時事解説番組が大流行である。
 そんな中、有名弁護士で政治評論家である橋本徹のテレビ番組での発言をめぐって、前川喜平が文句を付けた。
 「野党を貶め、菅政権を褒めるだけの言説で、(時事問題の公正な討論や解説になっておらず:筆者注)何の目的で呼んだのか。もう呼ぶな」旨の主張をした。
 これに対して橋本徹が、「言論の自由を知っているのか。「もう呼ぶな」ではなく「自分もテレビに出してくれ」というのが筋だろう。
 正々堂々とテレビで公開討論をしよう。いっぱい聞きたいこともある。」旨の反論で応戦した論争である。

1)ディベートと口喧嘩

 日本では基本的に民主主義に必要な主権者教育が存在しない。
 理性的な議論であるディベートを知らないし、教えてもらっていない。
 前川も橋本も個人の私利私欲に関する論点について議論をしていないのだから、議論は冷静に理性的に行われなければならない。
 その基本は相手への敬意や尊敬である。前川は東大法学部を優秀な成績で卒業し、文科省に入り事務次官まで上り詰めた極めて優秀な官僚であり、一方、橋本も弁護士資格を持ち、政治経験の豊富な、頭の回転の速いエリートである。
 このような日本を代表する頭脳の持ち主による議論であるから、一層、詭弁が氾濫横行することは非常に残念なことである。

 (筆者のおことわり: 橋本が具体的にどのような発言をしたのかを知らないため、前川の批判の当否を述べることができない。しかし、本稿は、橋本の発言の当否を議論する目的ではなく、前川の下品な口調の「難癖」に橋本が同程度の論調で応じた日本を代表するエリートの論争の当否を論点としている。)

 もし、二人の間の論争がただの口喧嘩であれば、最後には人格的な攻撃にも進展し、全く分析検討の余地もない下世話な「言い争い」で終わる。文言は多少、過激であり下品であるが、これは故意の表現技術・強調表現という風に筆者は理解している。

 本稿の目的である詭弁の氾濫という視点から言えば橋本の反論が詭弁ということになるが、読者は橋本の反論の中に詭弁を見出すことができるだろうか。

 (2) 第一の詭弁 言論の自由

 橋本が「言論の自由」を最初に口に出した時点でこの論争の勝敗は決していた。

 勿論、橋本の大敗北である。世間には橋本のファンが多く、憲法上の大原則、言論の自由が持ち出されたのだから、一見、橋本の言説には憲法上の保障つきと錯覚したに違いない。
 しかし、「言論の自由」が議論の当事者の主張場面、つまり自己弁護で登場することは絶対に無い。
 それは「言論の自由」が主張される場面は、通例、権力や理不尽な事情理由で個人の言論の自由が制限された場合であって本件では前川が単に橋本の「既に発言した内容」つまり橋本は言論の自由の権利を行使済みであって、どこにも前川の論難が橋本の言論の自由を侵害する要素はない。
 では何故、橋本は言論の自由を持ち出したか。それは橋本の具体的発言内容からより抽象的な議論へとすりかえる目的があったからである。

3)第二の詭弁 「もうよぶな」

 この文言は橋本の発言を批判したものではないから橋本は反論する立場にない。
 にも拘わらず橋本はこの前川の表現を強く非難した。まるでテレビ局の弁護人である。

もちろん、前川はテレビに出て橋本と議論したいなど毛頭も念頭にないにも拘わらず、

批判するなら「もうよぶな」ではなく「自分をテレビにだしてくれだろう」と前川の主張の骨子・批判の骨子が、偏った論評(と前川には写った)にあることを故意に「出演の要請問題」にすり替えた。
 これは橋本が自分の具体的発言を論点争点にすることを強く回避したがっていることを示している。
 筆者は何度も言うように当該テレビ番組を見ておらず橋本の発言を知らないが、橋本が当該発言を争点とすることを強く回避していることを感じる。
 議論に自身のある橋本が見え見えの回避をするのだから、やはり前川の批判は的を得たものと思われる。

 少なくとも橋本には発言の根拠を説明することができないことは明白である。

4)第三の詭弁 「正々堂々」

 前川に対し「テレビに出て橋本と対面で議論することが正しい批判のあり方であって、ネットで批判することは「正々堂々」ではない」との反論がされた。
 これもまた批判の内容ではなく、批判がネットでされたことに対する問題への議論のすりかえとなっている。
 匿名の批判であれば無視されたであろうが、高名な言論人の顕名批判であっただけに、あたかもネットでの匿名批判かの如きレベルに扱った。
 現に自分が「反論」をネットでしているのにあきれた矛盾論である。

5)第四の詭弁 「いっぱい聞きたいことがある」

 もっとも下品な恫喝的発言であり、前川の批判に対する反論とは無縁のものである。

 前川にはいっぱい非難される言動言説があるかの如き反論であり、ほぼ人格攻撃に近い。何も知らない人からみれば、まるで前川には人を批判する資格などないと反論されているように聞こえる。
 このような下品で論理性のない反論を橋本は堂々と行うから、かえって聴衆受けするのだろう。

 ※参照資料ーー(データマックス)【凡学一生の詭弁の論理学

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