2021年3月24日水曜日

詭弁の論理学②

 


 

 なお、筆者は最近の橋本の言説には詭弁が目に余るので、念のため橋本がテレビで披露した詭弁の例を示しておく。

3 総裁選をめぐる派閥争いの正当化

 橋本は自民党の総裁選での「派閥争い」について、政治家の「権力闘争」であって当然のことである旨のコメントをした。

 これは「派閥争い」という具体的事象を「権力闘争」という抽象度の高いレベルに言い換えた類型の詭弁である。このレベルであれば政治家なら権力闘争をある意味正当業務として行うという「言い換え」が可能となるからである。

 派閥争いの真の理由は権力闘争ではなく、利権や議員の再選のための行動である。
 国務大臣になることはその資質・能力とは無関係に確実に知名度を上げ、再選に極めて有利となるから、自民党議員の中には大勢の大臣指名待ちがいる。
 派閥に属しなければ事実上国務大臣になれないのだから、派閥に属し、総理大臣の指名競争の時点から勢力争い(数合わせ、人数争い)を展開する。
 このような状況を国民は知っているため、毎回、派閥争いを批判的に見ている。
 これを何か政策上の争いを意味する権力闘争に言い換えたことが正に詭弁の詭弁たる所以である。

4 総理大臣による大儀なき国会解散の是認

 菅総理大臣は遠からず国会を解散するだろうとの「うわさ」について橋本はこれも与党と野党の権力闘争だから許されるとした。
ここでも具体的な総理大臣の解散権が
与党と野党の権力闘争の問題にすり替えられた。
 この問題には二重に詭弁が関係している(詭弁の二重構造)ので、少し複雑・難解かもしれないが、丁寧に説明したい。

 そもそも総理大臣に固有の解散権があるか、という議論が学説でも議論されている。

 憲法上、国会の内閣不信任案に対抗する形で総理大臣に国会の解散権があることは明文上あきらかであるが、それ以外にも総理大臣に固有の解散権があるか、つまり世に言う「大儀なき解散」は認められるか、という問題である。
 このような固有の解散権の存在を天皇の国事行為の規定から正当化する論理となるため、7条解散権と講学上は呼んでいる
 つまり、天皇は国事行為として国会の解散を宣言するから、国事行為は内閣の助言と承認が必要だから結局、総理大臣には解散権がある、という論理である。
 これが逆理と飛躍の詭弁であることはあまり認識されていない。
 天皇には国政に関する権能は一切ないのであるから、天皇の国事行為は完全な形式・儀式に過ぎない。
 実質は全て「内閣」(総理大臣ではない:筆者注)の助言と承認権に存在する。
 従って、国事行為の規定を理由に内閣に国会解散権があるとし、ひいて総理大臣に解散権があるとすることは二重の論理の飛躍となる逆理である。
 なぜなら、内閣(ひいて総理大臣としてよいのか?)には如何なる意味でも国会解散権をみとめる規定は存在しない。つまり内閣に国会解散権を認める根拠がない。
 このように、内閣総理大臣の「大儀なき国会解散権」の問題には重大な論理的瑕疵が存在する。
 これらを全く無視して、橋本は与党と野党の権力闘争を理由に正当化した。
 無論、このような論拠で総理大臣の国会解散権を認める「学説」は存在せず、「橋本一人説」となる。
 「大儀なき解散」は「党利党略による解散」であるから、橋本一人説は「党利党略解散権説」ということになる。

 なお、この問題の背景には日本の法律学の浅薄性がある。それは形式と実質の混同であり、総理大臣と内閣の関係についての法的理解の不足・不存在である。

 総理大臣は確かに内閣の組閣権を持つ。
 それは各国務大臣の任命権である。
 では任命された国務大臣は一体誰に何に対して忠誠の義務があるのか。

 総理大臣もまた国民主権者によって権限が委任された代理人であり、国務大臣も代理人から選任されたいわゆる複代理人であり、忠誠を尽くすべきは本人たる主権者国民であり、単なる任命権者総理大臣ではない。
 論理的には総理大臣の意思と合議体内閣の意思が齟齬することは有り得ることになっている。こんなこととは露しらず、任命権者の総理大臣を「おかみ」とあがめる自民党議員には実質的な力関係だけが認識されている。お粗末な話である。

5 「政策に反対なら異動発令は当然」発言

 菅総理大臣がかつて官房長官時代に「ふるさと納税」政策を推進した際、当該制度が高所得者だけに大きなメリットがあり、かつ、市町村間で過度の寄付獲得競争が起こり、国民に対し公平公正であるべき納税制度が損なわれると進言した総務省の官僚を関連大学の学長へと左遷させた事例に関して批判があるところ、橋本は自己が大阪市長時代に進めた政策について官僚の根強い抵抗にあった経験を引き合いに出し、政治家たるもの、有権者に公約した政策を推進する際に官僚に抵抗を受けた場合には当該官僚を政策推進のために必要だから左遷するのも当然とした。

 何が詭弁か、何処が詭弁かを読者はすぐに判断することはできないと思う。
 それは橋本が実行した実例としての官僚左遷はそれなりに合理的で正当な理由があったから、
それ自体は誰しも異論が無いからである。
 つまり、橋本はこれまた具体的事例について具体的に正当性を議論することなく、政策遂行のために政治家が反対する官僚を左遷することは当然と一般論化(問題の抽象化)した。すでに読者がお気づきのように

 問題は政策の具体的内容であり、官僚の抵抗が理不尽である場合に限り、その理不尽な官僚を排除するため左遷することは当然ということである。
 つまり、橋本の詭弁では菅官房長官の推進した「ふるさと納税」の問題点、官僚ならずとも反対する人がいても当然といえる重大な欠陥があったのであるから、官僚の進言は極めて当然で、左遷された官僚は極めて職務に忠実であった。
 職務に忠実な官僚を問答無用とばかり左遷した政治家の行動は是認されるのか。この問題を橋本は詭弁で隠蔽した。

6 ほぼ日本の裁判官の全員が使う詭弁  

 証拠と結論の関係が全く真逆の関係が帰納的推論と演繹的推論の差異である。結論が先にあって、証拠をその結論に都合のよいものだけを選択して判決を書く。
 これが帰納的推論による判決である。
 但し、文章上の表現は先に証拠を示し結論を述べるから、外形的には演繹的推論の形をして区別ができない。
 では普通の人はどうしてこの詭弁を見破ることができるのか。これは実に簡単なことで、裁判官が訴訟手続の途中で証拠採用を拒否した場合と、あえて証拠を無視した形でその痕跡が残っている。
 ときにはとんでもない証拠の解釈を示すことがある。被告人の歯型と一致しない毒ぶどう酒ビンの王冠に残った歯型について「人の歯型であることには違いない」と認定した。
 また、犯行現場周辺が犯行当時雨天であったとする天候記録に対して、犯行現場300メートル円内は雨天ではなかったと認定した判例等である。
 こんな非常識な事実認定をしても当該裁判官が何らの責任を負わない司法権の制度が欠陥制度であることは言を待たない。

 友人の弁護士が言っていたが、司法修習の裁判研修は現役の裁判官が指導教官となるが、その教官が、判決は先に結論を決めて、それに都合のよい証拠を羅列して書くと説明したという。この話を聞いて裁判官達は確実に著明な法学者・法社会学者である川島武宜博士の名著「科学としての法律学」を読んでいないことが明白である。

 川島博士は同著で、判決を帰納的に書く方法を厳しく批判し、判決は全証拠から演繹される結論でなければならないとした。
 つまり、判決と矛盾する証拠が存在する場合、それは判決が帰納的推論で書かれた証拠であり、科学的論理性に欠けると指摘された。
 こんな論理的推論におけるイロハは理系学生なら誰でも理解し知っているが、文系の最高位とされる司法試験の合格者の中のさらに成績上位者である裁判官がこんな知性のなさが実態である。
 件の友人の弁護士は二人の息子を医者にしたが、裁判官や弁護士の実態を知っていたからではないかと勝手に推理している。

7 定性的概念と定量的概念の故意の混同

 「不適切であるが違法ではない」という迷言は近年、ヤメ検によって創作された詭弁である。
 普通の人には概念的理解ができないため、不適切の場合には違法ではないから、先に事案について不適切がどうかを判断して、不適切であると認識してもそれは違法ではないと言えると錯覚してしまう。
 すると違法なものは論理的に、不適切ではなくなる
 こんな馬鹿げた結論を導き出すから、ヤメ検の発案した迷言は確実に詭弁であることが理解できる。そこでこの詭弁の類型的本質は何かを考えた場合、それは「不適切」概念と「違法」概念の性質の違いにあることに気づくことになる。

 違法はある法規範に違反することであるから、判断には違法か合法の2つしかない。

二者択一、二律背反である。一方、「不適切」は判断者の価値観に異存し、無限の段階が存在し、かつ、論者によっては同じ事象であってもその判断は分かれる。違法が定性的であるのに比し、不適切は定量的であるからである。そもそも並び比較することが出来ない概念同士であった。

 筆者は平気で判決文に有りもしない嘘を書く裁判官がその判決文の理由の中で、

著しく不合理とはいえない」という日本語を使った。合理・不合理は違法と同じく二者択一・二律背反概念であり、「著しく」という形容詞は程度概念であるから、この日本語の命題は完全な論理矛盾であった。
 イメージとしては「少しは不合理であるが、
その不合理は許容される程度である」というものであろうが、そんな日本語をまともに理解できる日本人はこの世にいない。

 裁判官はこんなことが平気でできる人種である


※参照資料ーー(データマックス)【凡学一生の詭弁の論理学

詭弁の論理学①

 


 日本社会は崩壊の危機に瀕している。

 文明の崩壊である。

 一見、高度の科学や文芸を持ち、大量消費生活を謳歌する大多数の国民は日本の文明が崩壊の危機に瀕しているなど夢にも思っていない。

確かに社会・文明の崩壊が2年や3年後に到来するという意味ではなく、例えば明治維新から百年や五十年の時間の間隔で見た時、日本に芽生えた文明が確実に崩壊消失する兆候が見られるからである。
 それは「詭弁」があらゆる階層に氾濫し、言語の持つ信頼性が喪失しているからである。人と動物を明確に区別する道具は信頼を確認することができる言語である。
 言語を持たない生物集団は精々個々の寿命期間にのみ集団として地上に存在しうる。
 アフリカ砂漠のヌーの大集団は単なる生殖による種の継続に過ぎず、社会を形成し文化を持った生物集団ではない。
 人間が人間らしいつまり人間性を持った集団として社会を形成し文明を継続維持しているのは、基本的に言語の存在と機能に負う。

詭弁は確実に日本の民主主義を破壊している。

日本に真の民主主義を実現させるためには詭弁の存在形式を理解し、詭弁を少なくとも日常社会生活から排除しなければならない。

 詭弁の論理学は今の時代に最も必要な社会知見である。
 詭弁はわかりやすくいえば「うそ」であり、「うそ」が蔓延する社会がまともな社会である筈がない。

1 詭弁の存在形式

 詭弁の存在形式は3類型しかない。
それは①定性的議論と定量的議論のすり替え
   ②具体性のレベルと抽象性のレベルのすり替え
   ③帰納的論理と演繹的論理のすり替え(逆理)、
の3類型である。

 人間のすなおな感性で虚偽性を感じた場合、論理的にこの3類型のどれかに詭弁は集約される。以上の基本論理を理解した上で、現実の社会的詭弁について実例で実証する。

2 前川喜平と橋本徹の論争

 菅新内閣の誕生に際し、テレビでは時事解説番組が大流行である。
 そんな中、有名弁護士で政治評論家である橋本徹のテレビ番組での発言をめぐって、前川喜平が文句を付けた。
 「野党を貶め、菅政権を褒めるだけの言説で、(時事問題の公正な討論や解説になっておらず:筆者注)何の目的で呼んだのか。もう呼ぶな」旨の主張をした。
 これに対して橋本徹が、「言論の自由を知っているのか。「もう呼ぶな」ではなく「自分もテレビに出してくれ」というのが筋だろう。
 正々堂々とテレビで公開討論をしよう。いっぱい聞きたいこともある。」旨の反論で応戦した論争である。

1)ディベートと口喧嘩

 日本では基本的に民主主義に必要な主権者教育が存在しない。
 理性的な議論であるディベートを知らないし、教えてもらっていない。
 前川も橋本も個人の私利私欲に関する論点について議論をしていないのだから、議論は冷静に理性的に行われなければならない。
 その基本は相手への敬意や尊敬である。前川は東大法学部を優秀な成績で卒業し、文科省に入り事務次官まで上り詰めた極めて優秀な官僚であり、一方、橋本も弁護士資格を持ち、政治経験の豊富な、頭の回転の速いエリートである。
 このような日本を代表する頭脳の持ち主による議論であるから、一層、詭弁が氾濫横行することは非常に残念なことである。

 (筆者のおことわり: 橋本が具体的にどのような発言をしたのかを知らないため、前川の批判の当否を述べることができない。しかし、本稿は、橋本の発言の当否を議論する目的ではなく、前川の下品な口調の「難癖」に橋本が同程度の論調で応じた日本を代表するエリートの論争の当否を論点としている。)

 もし、二人の間の論争がただの口喧嘩であれば、最後には人格的な攻撃にも進展し、全く分析検討の余地もない下世話な「言い争い」で終わる。文言は多少、過激であり下品であるが、これは故意の表現技術・強調表現という風に筆者は理解している。

 本稿の目的である詭弁の氾濫という視点から言えば橋本の反論が詭弁ということになるが、読者は橋本の反論の中に詭弁を見出すことができるだろうか。

 (2) 第一の詭弁 言論の自由

 橋本が「言論の自由」を最初に口に出した時点でこの論争の勝敗は決していた。

 勿論、橋本の大敗北である。世間には橋本のファンが多く、憲法上の大原則、言論の自由が持ち出されたのだから、一見、橋本の言説には憲法上の保障つきと錯覚したに違いない。
 しかし、「言論の自由」が議論の当事者の主張場面、つまり自己弁護で登場することは絶対に無い。
 それは「言論の自由」が主張される場面は、通例、権力や理不尽な事情理由で個人の言論の自由が制限された場合であって本件では前川が単に橋本の「既に発言した内容」つまり橋本は言論の自由の権利を行使済みであって、どこにも前川の論難が橋本の言論の自由を侵害する要素はない。
 では何故、橋本は言論の自由を持ち出したか。それは橋本の具体的発言内容からより抽象的な議論へとすりかえる目的があったからである。

3)第二の詭弁 「もうよぶな」

 この文言は橋本の発言を批判したものではないから橋本は反論する立場にない。
 にも拘わらず橋本はこの前川の表現を強く非難した。まるでテレビ局の弁護人である。

もちろん、前川はテレビに出て橋本と議論したいなど毛頭も念頭にないにも拘わらず、

批判するなら「もうよぶな」ではなく「自分をテレビにだしてくれだろう」と前川の主張の骨子・批判の骨子が、偏った論評(と前川には写った)にあることを故意に「出演の要請問題」にすり替えた。
 これは橋本が自分の具体的発言を論点争点にすることを強く回避したがっていることを示している。
 筆者は何度も言うように当該テレビ番組を見ておらず橋本の発言を知らないが、橋本が当該発言を争点とすることを強く回避していることを感じる。
 議論に自身のある橋本が見え見えの回避をするのだから、やはり前川の批判は的を得たものと思われる。

 少なくとも橋本には発言の根拠を説明することができないことは明白である。

4)第三の詭弁 「正々堂々」

 前川に対し「テレビに出て橋本と対面で議論することが正しい批判のあり方であって、ネットで批判することは「正々堂々」ではない」との反論がされた。
 これもまた批判の内容ではなく、批判がネットでされたことに対する問題への議論のすりかえとなっている。
 匿名の批判であれば無視されたであろうが、高名な言論人の顕名批判であっただけに、あたかもネットでの匿名批判かの如きレベルに扱った。
 現に自分が「反論」をネットでしているのにあきれた矛盾論である。

5)第四の詭弁 「いっぱい聞きたいことがある」

 もっとも下品な恫喝的発言であり、前川の批判に対する反論とは無縁のものである。

 前川にはいっぱい非難される言動言説があるかの如き反論であり、ほぼ人格攻撃に近い。何も知らない人からみれば、まるで前川には人を批判する資格などないと反論されているように聞こえる。
 このような下品で論理性のない反論を橋本は堂々と行うから、かえって聴衆受けするのだろう。

 ※参照資料ーー(データマックス)【凡学一生の詭弁の論理学