2021年3月24日水曜日

詭弁の論理学③

 


嘘と詭弁

 日本社会に限らず、嘘は強い非難と糾弾を受ける。
 しかし、詭弁は日本社会では花盛りである。奇しくも、菅政権の誕生によって、稀代の詭弁の名手が2名脚光を浴びることとなった。
 有名弁護士で政治評論家である橋下徹と官房長官加藤勝信である。
 橋下については説明の必要がないくらい雄弁で頭の回転が速く、かつ博識で政治経験も豊富である。加藤は東大法学部を卒業し、官僚となり、世襲議員(実際は故加藤六月議員のジバンを相続した娘と結婚した形の世襲)となった。両者に共通する属性は有能な法律家ということである。

日本の法律学体系が詭弁学の体系

しかし、これは偶然ではない。日本の法律学体系が詭弁学の体系だからである。
 詭弁には往々にして権威主義を背景にしたものが多い。
 つまり社会的権威者の言説には詭弁が多い。日本の各界各層で詭弁が花盛りである理由の一つが権威主義を背景にしているということがある。
 有能な法律家は詭弁もうまいことがその要件のひとつでもある。

嘘との区別、嘘との本質的相同性異質性等の概念に関する本質論が存在しないことが原因

 この詭弁が奇妙に社会に受け入れられている最大の要因は、嘘との区別、嘘との本質的相同性異質性等の概念に関する本質論が存在しないことが原因である。
 筆者は夙に詭弁は嘘そのものであると主張をしているが、日本社会では全くこの種の議論をしない。
そこで、今回は具体的事例において、嘘と詭弁の本質について説明する。

嘘と詭弁の本質について説明

1 河井・案里事件

 検察官は被告人らは投票依頼等を目的に多数の有力者に金銭を交付したもので、買収罪に当たると主張し、被告人らは金銭の交付は当選祝いや陣中見舞い、党勢拡大のための目的であったと弁解主張している。

 当面の主題は「嘘と詭弁の本質的関係」であるから、被告人らの弁解が考察の対象となる。但し、事件が無罪で確定すればその場合には検察官の主張が「嘘」ということになる。本稿ではとりあえず、検察官の主張は真であるとの前提で議論する。

1)被告人らの弁解は嘘か詭弁か  序論

 嘘についての仮定義

 嘘とは物理的存在としての事実の認識に反する言説

 日本の家庭では一般的に幼児に対して「嘘をついてはいけない」という規範をしつける。この場合、幼児に可能なのは体験事実の認識であり、その認識と発言の相異の認識だから、嘘とは第一義的に上述の仮定義となる。

 詭弁についての定義

 嘘が比較的簡明に定義できるのにくらべ、詭弁はその定義自体が複雑である。ここでベン図的論理思考に慣れた人は、安易に嘘は詭弁の部分集合(つまり、一部でしかない)と錯覚する。これがまた、嘘でない詭弁の存在を認め、詭弁の横行を許す心理的原因ともなっている。筆者の主張は嘘と詭弁は同値関係、円で言えば完全に過不足なく重なり合う関係であるから、包含関係は同値というものである。この問題は、そもそも嘘と詭弁は同一平面上にあるものではなく、ベン図的論理関係にないということを指摘しておきたい。以上の前提で詭弁の仮定義を示す。

 詭弁についての仮定義

 詭弁とは観念的存在についての事実の認識に反する言説

 観念的存在には定義概念による観念的存在と、規範概念による観念的存在がある。話が抽象的になっているので具体的な例で説明する。

 法人というのは法律で規定された観念上の存在であるから登記等を見て法人を認識することは定義概念による観念的存在を認識したことになる。

 配偶者の一方が婚外性交をした場合、貞操義務という規範に違反したと判断するから当該行為は違法行為であると判断した場合、当該違法認識は規範概念による観念的存在である。

そして詭弁はこれらの認識に反する言説である。

以上の説明から明らかなように、嘘も詭弁も「認識に反する言説」であるから、本質は全く同じである。しかも詭弁は極めて重大な主題についてもその隠蔽効果は絶大であるから、犯罪性は単なる事実認識の隠蔽よりはるかに重大となる場合が多い。

2)被告人らの弁解は嘘か詭弁か  結論

 一般の人は合理的判断として、自分の選挙前に他人に金銭を交付することは投票依頼であり投票期待であって、陣中見舞い等ではない、と判断するから、被告人らの弁解は嘘と考える。

 また、陣中見舞いは偶然に同時進行した場合の「こじつけ」だから、それは詭弁だと考える。党勢拡大との理由に至っては万能薬的口実であるから、これまた詭弁と考える

 しかし前述序論で定義したとおり、金銭の交付をした本人の弁解であるから、存在しうる論理的判断は詭弁でしかない。しかも詭弁だけで必要十分である。嘘も詭弁も

社会における共同生活の根本である信頼を阻害する効果は同じであり、反社会性は同じだからである。

 実際の生活において嘘と詭弁について厳密に定義して用語を制限する意味は全く必要ないが、曖昧性が便利な分だけ、詭弁が誤解により社会に存在する可能性がある。

嘘も詭弁も自らの利益と保身のための「認識に反する」行為であり、共同社会生活を根本から破壊する最高レベルの規範違反であることを認識すべきである。

2 結語

 嘘も詭弁も不正な言説に対する非難用語であるから、社会に容認されてはならない。

補足

 前安倍晋三政権では詭弁だけではなく、嘘までもが幾度と無く公然と横行した。腐敗頂点社会といっても過言ではない。森友加計事件では幾度も「丁寧に説明する」という元安倍晋三総理大臣の言説を聞かされたが、「丁寧」という言語概念に相当する説明行為は無かったし不祥事で辞任する国務大臣の連続にも「責任を痛感する」との弁解謝罪はあったが、「責任:責めに任ずる」という実際の行為は何も無かった。

「拉致問題は安倍内閣の最重要課題」との言説は安倍晋三自身の口から幾度も聞いたが、在任期間78ヶ月の間に何ひとつ成果は実現せず、拉致された娘に二度と会うこともなく横田滋さんは亡くなった。

 一刻も早く日本から嘘と詭弁を放逐しなければ、健全な国民は育たない。

※参照資料ーー(データマックス)【凡学一生の詭弁の論理学

詭弁の論理学②

 


 

 なお、筆者は最近の橋本の言説には詭弁が目に余るので、念のため橋本がテレビで披露した詭弁の例を示しておく。

3 総裁選をめぐる派閥争いの正当化

 橋本は自民党の総裁選での「派閥争い」について、政治家の「権力闘争」であって当然のことである旨のコメントをした。

 これは「派閥争い」という具体的事象を「権力闘争」という抽象度の高いレベルに言い換えた類型の詭弁である。このレベルであれば政治家なら権力闘争をある意味正当業務として行うという「言い換え」が可能となるからである。

 派閥争いの真の理由は権力闘争ではなく、利権や議員の再選のための行動である。
 国務大臣になることはその資質・能力とは無関係に確実に知名度を上げ、再選に極めて有利となるから、自民党議員の中には大勢の大臣指名待ちがいる。
 派閥に属しなければ事実上国務大臣になれないのだから、派閥に属し、総理大臣の指名競争の時点から勢力争い(数合わせ、人数争い)を展開する。
 このような状況を国民は知っているため、毎回、派閥争いを批判的に見ている。
 これを何か政策上の争いを意味する権力闘争に言い換えたことが正に詭弁の詭弁たる所以である。

4 総理大臣による大儀なき国会解散の是認

 菅総理大臣は遠からず国会を解散するだろうとの「うわさ」について橋本はこれも与党と野党の権力闘争だから許されるとした。
ここでも具体的な総理大臣の解散権が
与党と野党の権力闘争の問題にすり替えられた。
 この問題には二重に詭弁が関係している(詭弁の二重構造)ので、少し複雑・難解かもしれないが、丁寧に説明したい。

 そもそも総理大臣に固有の解散権があるか、という議論が学説でも議論されている。

 憲法上、国会の内閣不信任案に対抗する形で総理大臣に国会の解散権があることは明文上あきらかであるが、それ以外にも総理大臣に固有の解散権があるか、つまり世に言う「大儀なき解散」は認められるか、という問題である。
 このような固有の解散権の存在を天皇の国事行為の規定から正当化する論理となるため、7条解散権と講学上は呼んでいる
 つまり、天皇は国事行為として国会の解散を宣言するから、国事行為は内閣の助言と承認が必要だから結局、総理大臣には解散権がある、という論理である。
 これが逆理と飛躍の詭弁であることはあまり認識されていない。
 天皇には国政に関する権能は一切ないのであるから、天皇の国事行為は完全な形式・儀式に過ぎない。
 実質は全て「内閣」(総理大臣ではない:筆者注)の助言と承認権に存在する。
 従って、国事行為の規定を理由に内閣に国会解散権があるとし、ひいて総理大臣に解散権があるとすることは二重の論理の飛躍となる逆理である。
 なぜなら、内閣(ひいて総理大臣としてよいのか?)には如何なる意味でも国会解散権をみとめる規定は存在しない。つまり内閣に国会解散権を認める根拠がない。
 このように、内閣総理大臣の「大儀なき国会解散権」の問題には重大な論理的瑕疵が存在する。
 これらを全く無視して、橋本は与党と野党の権力闘争を理由に正当化した。
 無論、このような論拠で総理大臣の国会解散権を認める「学説」は存在せず、「橋本一人説」となる。
 「大儀なき解散」は「党利党略による解散」であるから、橋本一人説は「党利党略解散権説」ということになる。

 なお、この問題の背景には日本の法律学の浅薄性がある。それは形式と実質の混同であり、総理大臣と内閣の関係についての法的理解の不足・不存在である。

 総理大臣は確かに内閣の組閣権を持つ。
 それは各国務大臣の任命権である。
 では任命された国務大臣は一体誰に何に対して忠誠の義務があるのか。

 総理大臣もまた国民主権者によって権限が委任された代理人であり、国務大臣も代理人から選任されたいわゆる複代理人であり、忠誠を尽くすべきは本人たる主権者国民であり、単なる任命権者総理大臣ではない。
 論理的には総理大臣の意思と合議体内閣の意思が齟齬することは有り得ることになっている。こんなこととは露しらず、任命権者の総理大臣を「おかみ」とあがめる自民党議員には実質的な力関係だけが認識されている。お粗末な話である。

5 「政策に反対なら異動発令は当然」発言

 菅総理大臣がかつて官房長官時代に「ふるさと納税」政策を推進した際、当該制度が高所得者だけに大きなメリットがあり、かつ、市町村間で過度の寄付獲得競争が起こり、国民に対し公平公正であるべき納税制度が損なわれると進言した総務省の官僚を関連大学の学長へと左遷させた事例に関して批判があるところ、橋本は自己が大阪市長時代に進めた政策について官僚の根強い抵抗にあった経験を引き合いに出し、政治家たるもの、有権者に公約した政策を推進する際に官僚に抵抗を受けた場合には当該官僚を政策推進のために必要だから左遷するのも当然とした。

 何が詭弁か、何処が詭弁かを読者はすぐに判断することはできないと思う。
 それは橋本が実行した実例としての官僚左遷はそれなりに合理的で正当な理由があったから、
それ自体は誰しも異論が無いからである。
 つまり、橋本はこれまた具体的事例について具体的に正当性を議論することなく、政策遂行のために政治家が反対する官僚を左遷することは当然と一般論化(問題の抽象化)した。すでに読者がお気づきのように

 問題は政策の具体的内容であり、官僚の抵抗が理不尽である場合に限り、その理不尽な官僚を排除するため左遷することは当然ということである。
 つまり、橋本の詭弁では菅官房長官の推進した「ふるさと納税」の問題点、官僚ならずとも反対する人がいても当然といえる重大な欠陥があったのであるから、官僚の進言は極めて当然で、左遷された官僚は極めて職務に忠実であった。
 職務に忠実な官僚を問答無用とばかり左遷した政治家の行動は是認されるのか。この問題を橋本は詭弁で隠蔽した。

6 ほぼ日本の裁判官の全員が使う詭弁  

 証拠と結論の関係が全く真逆の関係が帰納的推論と演繹的推論の差異である。結論が先にあって、証拠をその結論に都合のよいものだけを選択して判決を書く。
 これが帰納的推論による判決である。
 但し、文章上の表現は先に証拠を示し結論を述べるから、外形的には演繹的推論の形をして区別ができない。
 では普通の人はどうしてこの詭弁を見破ることができるのか。これは実に簡単なことで、裁判官が訴訟手続の途中で証拠採用を拒否した場合と、あえて証拠を無視した形でその痕跡が残っている。
 ときにはとんでもない証拠の解釈を示すことがある。被告人の歯型と一致しない毒ぶどう酒ビンの王冠に残った歯型について「人の歯型であることには違いない」と認定した。
 また、犯行現場周辺が犯行当時雨天であったとする天候記録に対して、犯行現場300メートル円内は雨天ではなかったと認定した判例等である。
 こんな非常識な事実認定をしても当該裁判官が何らの責任を負わない司法権の制度が欠陥制度であることは言を待たない。

 友人の弁護士が言っていたが、司法修習の裁判研修は現役の裁判官が指導教官となるが、その教官が、判決は先に結論を決めて、それに都合のよい証拠を羅列して書くと説明したという。この話を聞いて裁判官達は確実に著明な法学者・法社会学者である川島武宜博士の名著「科学としての法律学」を読んでいないことが明白である。

 川島博士は同著で、判決を帰納的に書く方法を厳しく批判し、判決は全証拠から演繹される結論でなければならないとした。
 つまり、判決と矛盾する証拠が存在する場合、それは判決が帰納的推論で書かれた証拠であり、科学的論理性に欠けると指摘された。
 こんな論理的推論におけるイロハは理系学生なら誰でも理解し知っているが、文系の最高位とされる司法試験の合格者の中のさらに成績上位者である裁判官がこんな知性のなさが実態である。
 件の友人の弁護士は二人の息子を医者にしたが、裁判官や弁護士の実態を知っていたからではないかと勝手に推理している。

7 定性的概念と定量的概念の故意の混同

 「不適切であるが違法ではない」という迷言は近年、ヤメ検によって創作された詭弁である。
 普通の人には概念的理解ができないため、不適切の場合には違法ではないから、先に事案について不適切がどうかを判断して、不適切であると認識してもそれは違法ではないと言えると錯覚してしまう。
 すると違法なものは論理的に、不適切ではなくなる
 こんな馬鹿げた結論を導き出すから、ヤメ検の発案した迷言は確実に詭弁であることが理解できる。そこでこの詭弁の類型的本質は何かを考えた場合、それは「不適切」概念と「違法」概念の性質の違いにあることに気づくことになる。

 違法はある法規範に違反することであるから、判断には違法か合法の2つしかない。

二者択一、二律背反である。一方、「不適切」は判断者の価値観に異存し、無限の段階が存在し、かつ、論者によっては同じ事象であってもその判断は分かれる。違法が定性的であるのに比し、不適切は定量的であるからである。そもそも並び比較することが出来ない概念同士であった。

 筆者は平気で判決文に有りもしない嘘を書く裁判官がその判決文の理由の中で、

著しく不合理とはいえない」という日本語を使った。合理・不合理は違法と同じく二者択一・二律背反概念であり、「著しく」という形容詞は程度概念であるから、この日本語の命題は完全な論理矛盾であった。
 イメージとしては「少しは不合理であるが、
その不合理は許容される程度である」というものであろうが、そんな日本語をまともに理解できる日本人はこの世にいない。

 裁判官はこんなことが平気でできる人種である


※参照資料ーー(データマックス)【凡学一生の詭弁の論理学